絵馬に描かれた平戸瀬戸における銃殺式捕鯨の様子[比売神社蔵]
捕鯨銃とボンブランス[島の館提供]
玄界灘辺りを通って行くわけです。そして、最終的には薩南の海や、今ホエール・ウォッチングで有名になっている度良間島などの南の海までも南下していくらしいです。そうして暖かい海で冬の間は過ごして、そこで子どもを産んだりする。今度春先には、子どもを連れて北のほうの海に戻っていくわけです。春になれば、北の海は流氷が溶けて、どんどん無くなっていきます。その流氷でがさがさになった海にものすごいたくさんのプランクトンが湧くらしいのです。そういうプランクトンを鯨が夏の間食べるわけですが、非常にいい餌になる。そういう回遊のプロセスがあるらしいのです。
谷川…子連れの鯨は、春の鯨ですね。
中園…産まれてすぐの鯨は特に春が多かったのでしょうね。
谷川…それで補鯨も春が多かったのですか。
中園…いえ、どちらかというと、冬が多かった。これは呼子の小川島辺りでも確認したのですが、冬の下り鯨のほうが発見がしやすかったみたいですね。
谷川…それは海面が透明になっているということでしょうか。
中園…いいえ。下り鯨の方が多かったというので、回遊路の問題かもしれません。冬の捕獲が多かった別の理由は、獲物の状態にありました。下り鯨は北の海でたくさん餌を取ってから南下します。子どもを住み育てる間、食事をしなくてもいいくらいの量の餌を食べています。ということは身体にものすごい量の脂肪が付くわけです。その脂肪こそが鯨油になるので、冬の鯨のほうがやはりいい獲物だったのです。それに対して、春に回遊する鯨は、南の海で子どもを産んで、乳を出して育てる。鯨の乳は非常に濃厚な脂肪です。飲ませている間、あまり餌を取らないので、鯨はどんどん痩せていくらしいのです。結局春に帰っていく鯨は、痩せた鯨が多い。ということは商品的な価値が下がる獲物だというように考えられる。そういうところで、冬の下り鯨が重要視されていたのではないかと思います。
谷川…なるほどね。幕末になると、生月の捕鯨業がかなり衰えると、解説書に書いてありましたが、その理由は、通り鯨が少なくなるのですか、それともまた別の原因があるのですか。
中園…通り鯨が少なくなるのが、やはり大きな原因だと思います。それは、百年以上にわたって続けられた古式捕鯨の活動の影響も考慮しなければならないのですが、一八四〇年から五〇年代にかけての幕末期に、西海各地のどこでも捕獲頭数が極端に減っている。そういう状態は、やはり、アメリカとかイギリス辺りの補鯨船が日本近海にやってきて背美鯨を捕獲した影響も考えないわけにはいかない。このようなアメリカの捕鯨活動はまさにペリーの来航につながっていくのですが、彼らに沖合で捕られてしまい、もう陸地近くには寄ってこなくなったのではないでしょうか。ところでアメリカ人に鯨の絵を描かせると頭が出っ張った鯨を書くのです。ところが日本人が描く鯨は弓なりの背中です。それは捕っていた鯨の種類が違うためで、アメリカ人がたくさん捕っていた鯨は抹香(まっこう)鯨です。出っ張った頭のところに脳油をたくさん溜めていますが、どのような温度でも固まらない油なんです。だから潤滑油としてはもってこいの品質で重宝されました。それから皮をはいで、皮にある油を釜で煎り出して取り出します。ただ残った肉は海に投棄していました。日本では抹香鯨を捕ったのは紀州です。西海
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